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トータスマミーの独り言


by dmm8649

鎮魂 そして 今年もありがとう。

毎年 年賀状の季節が近づくと 喪中の御はがきを頂く事が多くなってきた。
今年は 分けても 私の生涯の恩師を お送りすることになった。

私の 小学校の恩師 T先生。 終戦の翌春 小学校入学だったから全てに於いて
貧しい時代だった。5年 6年をもっていただいたが あの当時は どの先生も 
まるで24の瞳の大石先生のように 文部省のカリキュラム や 教育委員会 
PTAなどの干渉を受けずに 生徒達と先生とは まっすぐ人間として向き合っていた。
毎日毎日の宿題が 作文だった。 あのころ むちゃく先生の 山彦学校が
日本中の感動を呼んでいた時代だった。 丸暗記やつめこみではなく その日その日の
感じた事を とにかく 一行でも良いから書いてくる事。 先生は かならず 全員の
帳面に目をとおして 赤鉛筆で 色々アドバイスや 感想を 書き込んでくださる。
それが励みになって 4ページも5ページも 書く事もあった・・・・。 せんせい あんなあ
Aくんがなあ いけずするんや・・・・というような うったえかけも 先生はすべて
受け止めていらっした。 そういうときは ホームルームが開かれて  何故そんな事が
起こったのか どうしたら 御互いに許しあえるか 皆で意見をだしあった。

当時東京に出張といえば 大変な事だった。 先生が選ばれて  何かの大会に
いかれたのだと思う。 お帰りになって 教室に たらいが持ち込まれた。
バケツではこばれた水を入れて 先生のかばんから出てきたのはセルロイドの 
小さなヨットや船。 過密クラスだったから 全員への御土産にはならなかったが
ろうを船底にぬりつけて みんなで わいわい大騒ぎで 浮かべたのを覚えている。

私は 大変からだの弱い生徒だった。 体操時間も 見学を余儀なく
されるような みんなの服を番するのが役目のような。 あるとき熱が何日も
下がらず 長い欠席を続けていた。 その頃は 住宅事情がひっぱくしていて
間借りは当たり前だった。 私たちも 大工さんの家の2階に 間借りしていて
母は仕立物をしていた。 当時は もちろん健康保険などなかったから お金が
はらえなければ 病院には行けなかった。 ある午後 先生が心配して たち
寄ってくださった。 私は無論 ねたきりで お会いできなかったが 貴重な
一つのりんごと卵を三つ 置いていってくださった。 先生が御帰りになった後 母が
御座布団を片付けたら 封筒が出てきた。 なかから ペニシリンの注射をうけさせて
あげてください というメモと お金が出てきたという。  母が しばらく 部屋の
隅で泣いていたのを 覚えている。 未だいわゆる新婚時代の先生の奥様が
やはり 傘やさんの2階のまがりずまいで 御仕立物をしておられたのを 母も
知っていた。 皆貧しかったが 本当に暖かだった。

私が結婚式をあげる朝 白菊の花束を持って 先生ご夫妻が 駅へ
見送りに来てくださった。 私は その花束を持って 式場に臨んだ。
本当に 有り難い 先生ご夫妻だった。

そんな素晴らしい先生に 育てて頂いたにもかかわらず 私は別段何の
恩返しもせずじまいだった。 だが 先生のあの作文の宿題のおかげで
本を読む事 考える事 書く事は 好きな人間になったと思う。

年齢を重ねてきたせいもあるだろうが 一年一年 その年の重みを感じる気がする。
これまでの歳月 私と関わってくださった どれだけの方々に 御世話になったこと
だろう。 人生の多くの先輩 後輩、 年齢に 無論 男女にかかわらず どれだけの
方達に育てていただいただろうか。 私をえらんできてくれた子供達も含めて 
これまで、 そして今年一年 本当に ありがとう。 これからもよろしくね!
by dmm8649 | 2007-12-31 22:30